大津皇子の眠る二上山と中将姫伝説が伝わる當麻の里を巡る
旅の案内人 牧野 清貴
まずは雄岳の頂上にある大津皇子の墓を目指して旅をはじめました。近鉄南大阪線 二上山駅から登山口までは迷路のような民家を抜けます。少し道に迷いましたが、バイパス道路付近にある登山口から登山を開始。途中急な上り坂もあり、運動不足の私には少しこたえましたが、二上山駅を出発して1時間程度で目的の大津皇子の墓に到着。大津皇子は、大化の改新で有名な天智天皇(中大兄皇子)の弟の大海人皇子の第三子です。大海人皇子は、天智天皇の没後、天智天皇の息子である大友皇子と皇位を争い(壬申の乱)、これに勝利して、飛鳥浄御原に都を築き天武天皇として即位しました。大津皇子は勇敢で聡明であったため、天武天皇に重用されますが、天武天皇死後の後継者争いから、謀反の罪をきせられ二十四歳で処刑されます。
大津皇子の死後、地震が頻発したり、雷が鳴りつづけたりしたことから、大津皇子の墓は浄土の地である二上山に遷されます。皇子の死を悲しんだ姉の大伯皇女の万葉集の歌「うつそみの人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む」は有名です。
大津皇子の墓を後にし、少し歩いて雌岳の展望広場に到着。山頂からの展望を楽しみながら、ここで食事休憩をとりました。12月にもかかわらず、多くのハイカーで賑わっていました。
傘堂から下っていくと當麻の里の最初の目的地である「石光寺」に到着。「石光寺」は、天智天皇時代(六七〇年ごろ)に、この地に光を放つ三大石があり、掘ると弥勒三尊の石像が現れたのがはじまりだそうです。また、聖武天皇の時代(七五〇年ごろ)に、中将姫がこの寺で蓮糸を洗い五色に染め、桜の木に乾かしたというので、「染寺」ともいいます。ここで、中将姫伝説について触れておきましょう。聖武天皇の時代に奈良に住んでいた藤原豊成が長谷寺の観音さまに願をかけて生まれたのが中将姫です。姫が幼いときに、母が亡くなり継母に育てられます。姫が十五歳のときに、三位中将の位についたことから、以後、中将姫と呼ばれるようになります。このころから次第に継母は中将姫の和歌や音楽の才能を憎むようになり、姫を殺害しようとします。この迫害から逃れるため、姫は當麻寺に弟子入りを願い修行をはじめられます。姫が修行中に長谷観音の化身が現れて、蓮の茎を集め、曼荼羅を折るよう命じられ、姫が蓮の糸で曼荼羅を織り上げたときに、阿弥陀如来をはじめとする多くの仏菩薩が姿を現し、姫は西方浄土に旅立たれたと伝わっています。これが中将姫伝説です。石光寺には、中将姫が蓮糸を染めたという井戸(染井)が残っており、井戸の隣に当時の糸掛け桜の枯木があります。石光寺の見所は中将姫にまつわる井戸だけではありません。歌人与謝野晶子が石光寺に宛てた手紙には「初春や 当麻の寺へ 文かけば 奈良の都に 住むここちする」と書き添えられており、その文学碑が残されています。また、石光寺は、寒ボタンの名所でもあり、12月下旬から1月にかけて見ごろとなります。私が訪れたときも、多くの観光客が寒ボタンの撮影やデッサンをしていました。次に當麻寺へ向かいました。當麻寺へ向かう途中に、中将姫の墓があるので立ち寄ってみました。墓地のなかに、ひっそりと姫の墓が立っていたのが印象的でした。
ほどなく、當麻寺の山門に到着。當麻寺には中将姫の像があります。當麻寺も中将姫伝説の地なのです。曼荼羅堂には、中将姫が染めて織り上げたという當麻曼荼羅の転写(室町時代)が保存されています。當麻寺には、曼荼羅のほかにも、弥勒菩薩像、四天王像、東塔、西塔、奥院、中之坊があり見所たっぷりです。ここではすべてを紹介しきれませんので、詳しくは、當麻寺のホームページをご覧ください。當麻寺から徒歩十五分ぐらいで近鉄 南大阪線 当麻寺駅に到着し旅は終わります。旅に要した時間は6時間ぐらいでした。
二上山~石光寺~當麻寺のコースでも十分満喫できますが、時間に余裕があれば付近を散策してもよいでしょう。最古の官道といわれる竹内街道、松尾芭蕉が訪ねその句碑が残っている綿弓塚、竹内古墳群などの名所があります。これらの名所を巡って、近鉄 南大阪線 磐城駅から帰路へ向かうのもお勧めのルートです。
どうですか?みなさまに歴史のロマンが伝われば幸いです。今回は旅に出かける前にいろいろと調べましたが、有名な散策コースのようです。奈良県民として知らなかったので恥ずかしい限りです。奈良には、今回紹介したコース以外にも歴史ロマンを満喫できる散策コースがたくさんあります。平城京遷都1300年祭を機に、あなたの知らない奈良を旅してみてはいかがでしょうか?
2010年 1月






